初めまして私はスアルタです。宜しくお願いします。
仕事が忙しかったので、新たな記事がなかなか書けなかったのですが、10月に入ってから仕事が少なくて、暇になったので、やっとブログを書けるようになりました。今回私が日本の植民地時代の歴史を紹介しようと思います。日本人が知っていた歴史と比べれば違うかもしれませんが、この歴史はインドネシアの教科書に書かれた歴史です。
このテーマを選んだ理由は昔のことを思い出させるためでも日本人を批判するためでもありません。
過去のバリ島の歴史から、現在のバリ島の歴史まで紹介しようとこのブログを書いています。その歴史の中で日本の植民地の歴史もあるので、今回はこのテーマを書くことになりました。残酷な内容ではありますが、一つの歴史として読んで下さいね。
皆さんの「コメント」や「いいね」は本当に励みになります。バリスアのブログはバリの歴史や文化などを紹介するブログです。バリ島の文化や歴史などを知りたい方はバリスアのブログを読むと、バリ島の知識が身につくので是非読んで下さい。宜しくお願いします。この歴史は全てガイドブックを私が翻訳したものです。
日本軍の到着
日本が連合国との戦争を宣言した後、1942年に日本軍はインドネシアに入りました。その後、1942年の2月19日に日本軍はバリ島に入り、サヌルビーチに上陸しました。当時バリ島はまだオランダによって支配されていました。日本軍がオランダ軍に勝利した後、日本軍の残酷さのためにバリの人々は不安と恐怖を抱き、多くの人々は森や山に逃げました。日本政府が文民政府の担当官を招聘した後、事態は徐々に改善し始めて、全ての人々はいつものように働くことが奨励されています。日本の植民地になったので、当時バリの役職名に関することは全て日本語に変更されていました。
バリの人々の心を引きつけるために日本軍が沢山の宣伝をしました。インドネシアの歴史によって、アジア地域では日本軍が「3A」と呼ばれる宣伝をしたと言われ、その宣伝で本質的に、他のアジア諸国に対する日本国の力の強さを反映しています。日本政府はインドネシアの国歌を東京から放送して、それから占領地の日本のラジオスタジオはそれを再放送して、全てのインドネシア国民がそれを聞くことができるようにしました。インドネシアでの日本国の宣伝はバリの人々の心を引き付けることにかなり成功していると言えます。
日本は連合軍の破壊と日本軍の継続的な勝利のニュースを放送することにより、日本軍の着陸を促進するために宣伝を積極的に実施しました。
「日本国は、バリへの日本軍の到着は東アジアの相互繁栄の文脈で人々の運命を改善する使命を持っていたと言いました。日本軍はオランダの植民地に取って代わるのではなく、バリ島からオランダの侵略者を追放するためだけにバリに来ました。したがって、日本政府によると、森や山に逃げたバリの人々は政府を組織するのを助けるために通常の活動に戻らなければなりません。」
そのような声明で、日本の宣伝はバリの人々の心を引き付けることにかなり成功しました。しかし、東アジア戦争の状況と日本軍の宣伝の目的がバリの人々によって本当に知られた後、バリの人々は反日的な態度を開始し始めました。
オランダ政府に対する日本の態度
日本陸軍がバリ島でオランダ軍を打ち負かすことに成功したため、日本軍は全てのオランダの高官を逮捕しました。オランダの高官はジャワ島に持って行かれ、刑務所に入れられました。教育制度に対して、日本も非常に堅固な姿勢を持っています。オランダの教育制度を利用している学校は、日本の教育制度に置き換えられています。政府に関しては、オランダが使用している政府構造を使用しており、役職の名前のみが日本語に置き換えられています。これは全て、バリの人々に対するオランダの植民地の印象を排除するために行われました。
インドネシア国に対する日本の態度
上陸からバリでの治世が終わるまで日本は東アジアの戦争のために、バリの人々にあまりにも多くのことを要求し、それがしばしば暴力行為につながりました。言語の分野でのコミュニケーションの困難は感情的な行動を引き起こし、パンチとキックはバリの人々に対して、日本軍が行う通常の仕事となっています。バリの人々は日本語を話せないといけない。英語やオランダ語を使うのは禁止されたので、日本は沢山の学校を建てました。それに加えて、バリの人々は農業や大工の学校に入学する機会もあります。学校で使われている指導言語は日本語とインドネシア語になります。日本の国歌「きみがよ」は日本のへいか天皇に敬意を表して、毎朝歌を歌わなければなりません。
経済活動は全て東アジア戦争の必要性を支援することを目的としています。戦争の目的のためにお米や果物などの全ての食べ物は日本に渡さないといけないです。したがって、バリの人々は食料が不足となっています。日本の占領により、バリ島の経済は非常に悪くなりました。戦争のために労働者も沢山必要なので、日本軍はバリの人々に山や丘などに保護のために穴を掘る作業を強制しました。戦争のために違う島に送られたバリの労働者も沢山いると言われました。インドネシアの各地に送られる前はいつも労働者に嘘をついていました。労働者になりたい人たちは命が保証され、水田や畑などのための新しい土地を開くことができると言いましたが、本当の目的は全て戦争や日本軍の保護する場所を作るために送られました。旅の途中に、労働者を乗せた船の多くは連合軍に爆撃されたために沈没しました。何人かの労働者が帰れますが、全身が焼けてしまいました。政治の中でもバリの人々は同じ運命に苦しんでいます。反乱が起こらないように、日本はインドネシアのあらゆる形態の組織を禁止する法律を発行します。地域外との関係は閉鎖され、報道機関の生活、ラジオは非常に制限されています。
バリの人々に対する日本の暴力は間接的に高い自尊心と独立のために戦う熱意の出現をもたらしました。3年間でこれまでないほどインドネシア「バリ島」の人々に惨めさをもたらしてきました。
日本に対するインドネシア国の態度
日本軍はサヌルビーチに上陸したと聞いたので、バリの人々は皆怖くて、心配の気持ちが出てきました。バデュン県の地域でのオランダ軍との戦争によって、まだトラウマを抱えているので、バリの人々の心の中で、オランダ軍より日本軍はバリ島で非常に残酷に支配するだろうと想像していました。したがって、多くのバリの人々は山や森などに逃げました。日本軍がバリ島を完全に支配した後、恐怖はおさまり始めました。日本は全てのバリの人々にそれぞれの家に戻って、いつものように働くように指示をしました。
連合軍との戦争で日本軍が圧迫され始めた後、日本軍の残酷さが表れ始めました。行進訓練や保護する場所を掘り起こし、お米や様々な食べ物などの渡しは恐怖と衝動を感じながら行われました。しかし、日本は間接的に愛国心と国家としての自尊心を植え付けています。反日感情が高まり始めましたが、バリの人々は公然と反対することを敢えてしなかったです。カランアセム県の人々は反乱をしたことありましたが、捕まったため日本軍に頭を切り落されたと言われました。
日本と連合軍との戦争の状況についてのニュースを知るために、バリの反日の組織の人々はシンガラジャ県の街でこっそりラジオ聞こうとしています。日本軍が連合軍に様々な所で押し付けられて以来、反日の組織が知られるようになりました。日本軍に知られていてもこの組織は諦めず、バデュン県のケロボカンのガジ村と言う所で会議が行われてから、バリ島全体で同時に反乱を起こすことが決定されました。したがって、PETAというバリ軍隊の全てのメンバー、青年組織、学生などは戦争に備える必要があります。当時、雰囲気がかなり熱くなったので、バリ島の各地でPETA軍隊と日本軍の戦いがありました。
インドネシアの独立前の期間
1.1945年の8月6日、広島と長崎がアメリカに爆撃され、日本はアメリカと連合国に降伏しました。この機会はインドネシアが独立を宣言するためにも使用されました。
2.1945年の8月9日にsukarno大統領とhatta副大統領は寺内寿一様という日本の軍人と会うためにベトナム国に飛ばされました。寺内寿一軍人は、日本軍は破壊に向かっていますが、日本が8月の24日にインドネシアの独立を望んでいたと述べました。
3.一方、インドネシアではsutan syahrirという人が1945年の8月10日にラジオで日本が連合国に降伏したというニュースを聞いたので、軍隊たちはインドネシアの独立の宣言するために準備しました。そして日本からのプレゼントとして与えられた独立の形を拒否しました。スカルノ大統領がインドネシアに戻った時、1945年8月14日、sutan syahrirはスカルノ大統領に直ちに独立を宣言してくださいと命令しました。しかし、スカルノ大統領は日本が本当に降伏したかどうか確信が持てなかったので、当時スカルノ大統領はインドネシアの独立を宣言したくありませんでした。
4.8月の15日に日本は連合国に降伏しましたが、日本がインドネシアの権力をオランダ政府に返還することを約束したので、日本軍と海軍はまだインドネシアで権力を握っています。
5.若者と戦士たちは気性(忍耐)を失ったため、1945年8月16日の初期にスカルノ大統領とハッタ副大統領を誘拐し、rengas dengklokという所に連れて行きました。ここで彼らは日本が降伏し、戦士たちはリスクが何であれ、日本軍と戦う準備ができていることをスカルノ大統領に安心させました。夜にスカルノ大統領とハッタ副大統領はジャカルタに戻り、茂一郎山本軍に会いに行きました。そのコミュニケーションから、スカルノ大統領とハッタ副大統領は日本が連合軍に降伏し、独立を認める権限がなくなったと確信するようになりました。
6. 日本が負けたと言うことを知っていたため、夜スカルノ大統領と他のメンバーたちが会議を開き、独立宣言のテキストを準備し、それが1945年8月17日の朝に読まれました。その宣言はインドネシアが独立したと述べました。
スカルノ大統領が独立の宣言した時の写真です。
まとめ
インドネシアでの日本軍の占領期間は確かに非常に短かったですが、それは多大な影響を与えることができ、日本の残酷さはオランダを上回ったとさえ言えます。インドネシアでの占領中に日本政府は東アジア戦争のニーズを満たすために、全ての自然資源と人的資源を管理しようとしました。日本はインドネシアの天然資源を活用するために、インドネシア国民を労働力にする政策を実施して、日本語で労務者と言われます。当初、労働者たちは企業や農業の労働者などの生産的な労働者として雇用されていましたが、1943年半ばに入ると、労務者たちは鉄道の建設や鉱業、要塞の建設など、戦争の円滑な運営を支援するために働きました。当時労務者は待望の商品になりました。
労務者たちの苦しみはインドネシア国の歴史の中で忘れられない苦しみです。彼らの仕事は非常に重く、彼らが得る賃金の価値はありません。食べ物しかもらえない労務者も数えられないほどいると言われます。ドイツ国と同じように、昔の日本は植民地にとって非常に残酷な国と言われました。労務者政策の実施の影響は人々の生活にとって非常に悲惨であり、村のコミュニティの経済は日本による政策によってますます妨げられています。食料の必要性がますます困難になっているため、多くの人が食べられない食料を食べ、高栄養を含まない食料を購入しています。
殴られたり、蹴られたりすることは毎日一般的なことになります。インドネシアの人々に投げかけられた侮辱は決して止まりません。インドネシアの人々に対する日本軍の非人道的な扱いは彼らの精神的を苦しめました。生活の中で落胆するようになりました。彼らはトラウマになり、その時のインドネシアの社会では日本人に対する憎しみや恨みが高まるようになりました。
現在のバリ人の見方
私は現在のバリ人として、過去の私の国の暗い歴史に問題を抱えたことは一度もありません。私の国に植民地化した日本やオランダを嫌ったことはありません。なぜならば、私の国に植民地化したのは昔の日本人であり、現在の日本人ではありません。だから、現在の日本人を嫌う理由はありません。過去は過去、現在は現在であり、昔の日本人と現在の日本人は違う話になると思います。逆に、私の国の暗い歴史はインドネシアが永遠に繁栄し平和な国になるように、学び続け、強くなるために貴重な教訓を与えてくれます。
by;スアルタ