バリ島のスバックシステムの未来
2019年のバリ政府の調査によると、農民として働くバリの若者の数は非常に少ないと言われます。現在のような時代の変化により、若者の農家への関心は今後も低下する可能性があります。バリ島の農村では、親たちは子供たちを学校に通わせ、儲かる観光業で働けるようにと願い、畑に行って農産物を売っています。両親が農民として働けなかった時、田んぼは隣の田んぼを望む屋台やカフェに使用されました。今の時代、文化は観光産業に傾いており、田んぼの景色はお米よりも高価です。
観光産業に流れる巨額の資金の裏では、バリ島の悪夢が待っています。私はよくジャティルウィにお客さんを案内しています。田んぼの景色は非常に綺麗で広いです。ジャティルウィの田んぼは現代のバリの農耕文明の象徴であり、2012年に世界遺産になりました。実際、ジャティルウィで適用されているスバックシステムは9世紀からバリ島に存在していました。
今回のブログは、バリ島のスバックシステムの発展と歴史、課題、未来を紹介いたします。それでは、古代から現在、そして将来のスバックの発展に適用される伝統的なバリの灌漑システムは一般的にどのようになっているのでしょうか?
基本的にスバックシステムは全ての農民が平等に水の分配を受けられるようにすることを目的とした灌漑システムです。9世紀のルシマルカンディヤお坊さんの時代に、スバックはバリ島中部に初めて導入されました。その地域は現在パケリサン川流域とその周辺として知られています。その後、10世紀のウダヤナ王様時代にスバックシステムはタバナン地域に至るまでバリ島の様々な地域に広がり始めました。
古代バリ王国時代スバックシステムは急速に発展しました。『Batu karu』バトゥカル山の麓で開発されたスバックシステムにより、バリ島は肥沃な地域となり、自国の食料需要を満たすことが出来るようになりました。
バリ島のスバックの黄金時代は、おそらくウダヤナ時代からゲルゲル王国時代まで続いたと考えられます。それは、特にジャワのマジャパヒト王国の崩壊時に、バリ王国の領土の西への拡大が非常に大きくなったからです。
ジャティルウィ地区は、ユネスコにより世界遺産として認定されているバリの文化的景観のエリア『C』に含まれています。バリ島では、実はユネスコの地域が四つあります。ジャティルウィは『catur angga batu karu』チャトゥルアンガバトゥカルという地域に入っています。エリア『B』はパケリサン川流域のギャニャール県に位置します。エリア『A』はバングリ県のバトゥール湖に位置します。エリア『D』はバドゥン県のタマンアユン寺院に位置します。
今までバリの人々は、バトゥカル山の麓はバリでスバックシステムが最初に発達した場所であると信じています。ジャティルウィにおけるスバックの最初の発展は、ウダヤナ王とジャヤパングス王の治世後の時期に起こった可能性があります。しかし、これら全てを証明するには、歴史的な証拠や様々な碑文が必要です。現在まで、スバックがバリ島で最初に発展した場所を明らかにする碑文はまだ、ほとんど発見されていません。古代バリの碑文はほとんど、キンタマーニエリア、ギャニャールエリアとバリ北部で発見されました。発見された碑文では、スバックシステムについてはあまり、明らかにされていませんでした。これは、ほとんどの碑文が紛争地域、特に文明と売買の中心地であった地域で作成されたことを示す可能性があります。
しかし、田んぼ地帯は売買の中心地ではなく、むしろ食糧生産の中心地になります。そのため、碑文は主にバリ北部の海岸沿いで発見されています。発見された碑文のほとんどは、バリ北部の丘陵地帯で活発な貿易システムと古代の貿易が行われていたことを示しています。これは、当時の食料生産の中心地が確かにバリ島西部の山々周辺、特にバトゥカル山の麓とその周囲の湖であったことを示す兆候かもしれません。
いくつかの情報源によると、ジャティルウィのアセマンという寺院はバリ島のスバックの祖先寺院であるとされています。言い換えれば、この地域はバリ島で最初にスバック文明があった場所と考えられます。しかし、他のいくつかの情報源によると、バリ島で最初のスバックはギャニャール県のパケリサン川流域にあったとされています。しかし、多くの聖典やその他の古代文献に記載されている内容に基づいて、ほとんどのバリ人はジャティルウィがバリ島でスバックが最初に存在した場所であると信じています。
植民地時代
オランダの植民地時代スバックは進化を遂げました。他の地域、特にジャワ島とスマトラ島では伝統的な農業システムが非常に深刻な被害を受けています。1830年代から1940年代にかけて強制栽培として扱われていたからです。しかし、バリ島がオランダによって本格的に管理されたのは1908年になってからであるため、バリ島のスバック農業システムは強制栽培によって実際には変化しませんでした。
しかし、バリ島のスバックシステムは現代に大きな変化を遂げました。その変化は1950年から1980年の緑の革命の影響を受けました。これにより、伝統的なスバック農家は水灌漑システムと植栽システムを変更することになりました。緑の革命により、最長3~4か月で収穫できる多くの新しい種類のお米が生み出されました。これは、6か月ごとに収穫される、大きな苗のバリ島本来のお米とは大きく異なります。バリ島のスバックではバリお米を栽培しており、収穫は季節の変わり目に合わせて、年に2回行われます。
しかし、緑の革命のおかげで収穫は年に最大3~4回に行われることが出来ます。そのため、バリ島の伝統的なスバックシステムは進化する必要がありました。この現代において、バリ島の伝統的なスバックは、森林破壊や土地転用、制御されない人口増加など、多くの問題に直面しています。水への依存度が高いスバックシステムは、その文化的景観がユネスコの世界文化遺産として認められているにもかかわらず、不確実な将来に直面しています。
では、このままバリ島のスバックは世界遺産として知られるだけで、活用し続けることは不可能なのでしょうか?
ジャティルウィの水田の面積は17,000へクタール以上あります。ジャティルウィ自体には25以上の泉があり、無限に水を供給しています。この水は『telabah gede』と呼ばれる所に通って各農家に供給されます。植え付け期間の前に、『magpag toya subak』マグパグトヤスバックと呼ばれる神聖な儀式が行われます。『magpag toya subak』マグパグトヤスバックという意味はスバックの水を迎えると言う意味です。この儀式はバトゥカル山の背後にあるタンブリンガン湖で行われます。ジャティルウィの水田の水源はタンブルンガン湖から来ています。しかし、最新の調査によると、タンブリンガン湖の表面は2010年から2017年にかけて縮小したことを示しています。湖の水位は再び最高点に達することはなかったと言われます。
通常、雨期になると必ず地下水が湖の端から200~300メートル離れた住宅地に浸水します。しかし、地球温暖化でそんなことはもう起こらなくなりました。2018年にバリ州公共事業局が実施した調査によると、ジャティルウィとその周辺地域の放水量は減少し続けていると言われます。これは、ベラタン湖とタンブリンガン湖カルデラ地域の森林伐採と土地転換が原因だと考えられました。土地転用が直ちに中止されなければ、今後20年でジャティルウィの水田は供給される水の半分を失うことになります。
2012年、ユネスコはロシアの『saintpeterberk』での会議を通じてスバックを世界文化遺産として認識し、指定しました。バリ島の人々としては、この世界遺産が適切な水の供給なしでどのように存続できるかを考えなければならないため、この現代においてスバックシステムを悩ませている多くの問題を目の当たりにしています。バリの文化を保存するには、自然保護が最優先になります。なぜならば、バリ島の伝統文化は神、人間、自然の間に切り離すことのできない密接な関係があるからです。
自然が変われば、人間の文化も変わります。森林が住宅地や工業地帯に変わってしまうと、地球は十分な水を蓄えられなくなります。水が不足すると農業システムも混乱になってしまいます。農業システムに関連する全ての儀式はもはや意味を持たなくなります。従って、ジャティルウィやバリ島の他の地域にある美しい水田のある村に来るなら、バリ島のスバック問題について知らなければならないと思います。
本当の問題は、バリ島の生態系、特に水に関連した生態系をどのように維持できるかです。バリ島の文化を語るなら、まず水について語らなければなりません。バリ島には聖水宗教の文化遺産があり、あらゆる儀式でバリ島中の様々な泉からの水を使用します。
しかし実際には、バリ島は現在、水危機に直面しています。バリ人が土地転用を止めなければ、この伝統文化を維持することはできないと思います。バリの人々の祖先は、神、人間、自然の間でうまく相乗効果を発揮するスバックシステムを創造しました。バリの人々が先祖代々の遺産を本当に守りたいのであれば、先ずしなければならないことは自然と水源を守ることです。バリの文化を保存するための主な優先事項は、自然と水源の保存であるべきです。自然と水が整備され、そこに住む人々は十分な食料を得ることが出来ます。又、自然と密接に関係する伝統的な体系や伝統的な教えの儀式は、それ自体で維持されます。
スバックの期間
バリ島のスバックの歴史には四つのスバック期間があります。最初の期間は、ルシマルカンディヤお坊さんがバリ島東部の森を伐採した時でした。第二期は、この伝統的な農業システムがタバナン県などの他の地域に広がった時期でした。第三期は、オランダの植民地時代でした。1800年代、バリ島とジャワ島はオランダ人から強制植栽として知られる季節ごとに米を植えるよう命じられました。当時、バリ島とジャワ島では農業制度に大きな変化がありました。第四期は、現在見ることができるように近代になります。
では、スバックシステムは今後も存続するのでしょうか?生態学と気候変動に関連する将来のスバックは、バリ人がいくつかの要因に注意を払えば存続し続けると思います。
第一には、新しい米品種と代替食用作物があります。現在、バリ島では米以外の主食の開発が進められています。例えば、トウモロコシやサルガムはいくつかの地域、特にバリ島北部とバリ島東部で開発されています。人々の消費パターンの変化に伴い、食料生産システムとしてのスバックも、こうした変化する機会を取り入れ活用する必要があります。いつか人々がお米を捨てても、スバックは進化を止めながらも存在し続けることが出来ます。
スバックが生き残れるかどうかを決定する2番目の要因は、水の入手可能性です。スバックは基本的に配水システムであるため、水なしのスバックは単なるただの理論になります。しかし、エアポニックス水耕栽培、スマート農業ベースのシステムなどのハイテク農業システムを使用すると、スバックシステムをテクノロジーと統合できるため、少量の水で操作でき、より高い収量を得ることが出来ます。
現在、先進国ではスマート農業システムが導入されています。このシステムが導入されたのは、地球が過去30年間に重大な気候変動を経験したからです。地球の温度が上昇し続けるため、地球の気候は異常になりました。そのため、一部の食用植物は最適に生きることが出来ません。しかし、スマート農業システムあれば、気候変動の解決策は克服できます。政府とコミュニティの支援を受けて、スバックは進化を続けて、この新しいシステムを採用しています。
将来スバックを変える要因となる最後のものは、殺虫剤です。科学ベースの殺虫剤の使用は、数百キロメートル下流の水生生態系を破壊する可能性があります。環境に優しくない殺虫剤は水田の生態系を脅かすだけではなく、川や湖、海の生態系も脅かします。
毎日写真やインスタグラムなどで永遠に記憶される田んぼの美しさの裏には、手遅れになる前に解決しなければならない非常に難しい問題があります。
以上、バリ島のスバックシステムの問題点について簡単に説明しました。私の説明でバリ島の伝統文化についてもっと知っていただき、理解していただければ幸いです。
By;スアルタ